属性を気にしすぎていたのは私だったという話

Twitterを辞めると決めて報告したらなんだかすっきりしたので、どうでもいい話、いっぱいしよう!!!
どうでもいい話ってよくいうけど、私の定義は
「きっとみなさんにとってはどうでもいいと思いますが、わたしにとっては結構なレベルで大事かもしれない話」って感じ。どうでもよいかもしれませんが、よかったらお付き合いいただけたら嬉しいです。
辞める報告に対して、いただいた反応によって得られた気付きのお話です。

 

Twitterって属性に応じてアカウントを変えてらっしゃるケースが多い。
たとえば、「日常」「おたく1(推し界隈)」「おたく2(別の推し界隈)」みたいな感じ。
そのメリットは、その分野のお仲間が集結しやすい、お友達募集などがしやすい、わかりやすいという点。
わたしは垢分けというものがどうもできなくて、ろん垢ひとつで基本は動いている。日常を発するアカウントをつくってみたけど、怠惰なので動かさず今に至る。

 

わたしは元々ジャニオタだったし、そういうアカウントとしてはじめたんだけど
「今はジャニオタです!」と大声で断言できるかというとそうでもないし、だからといって、「ろん」という、ただの人のわけわからんTwitter
読んでもらうのが申し訳ないみたいな思いも少なからずあった。いろんな話をして混乱させていないだろうか。スーパーマイペースなのに、へんなとこだいぶ気にしいなので定期的にその件は混沌としていたりしました。やめるってことに直接つながったわけではないけど、ツイート減る時はそういうことを考えてるときだから作用はしてるんだろうなあ。Twitter界で属性のわからないものはオタク業界敬遠されがちなんだろうなと思ったり。


昨今、属性がはっきりわかるもの、わかりやすいものが受容されやすいという社会の流れを感じているからこそ、これで大丈夫かな?ほんまにこれでええん?って感じでした。

今回、Twitterをやめると言ったことで、いただいたコメント等を拝見しているとちょっと待って!!!!!!属性にこだわっていたのは、そもそも私では???
FFさんの中にはいろんなところに話が飛びまくるTwitterを楽しんでくださっていた方もいたんだなということに気づけた(遅)それぞれの感性があるので、わかりづらいわ!って人もいらっしゃって当然だし、それはそれでふつうのこと。
そもそも属性を気にしていたのは自分なのではないかという気づきを得ました。

今の世の中(大概話が大きい)わかる・わかりやすいっていうところに着地するものって多くて、
お役所の書類でもなんの書類でも懇切丁寧に説明してくださることが増えたし、学校の授業でもわかりやすい授業=いい授業みたいに捉えられがちだと思う。メディアもわかりやすいものが受け入れやすい。わかりやすく噛み砕いた解説書なんかも人気っぽい。
わたしは、わかりやすさ信仰にちょっぴり危機感を持っているのに、じぶんのなかのわかりづらさを受容できないのはわかりやすいもの信仰に左右され過ぎでは?と気づきました。
 
そのよくわからんTwitterだからこそ、出会えた人はいっぱいいる。なにきっかけかわからない、多彩なフォロワーさんに出会えたのはありがたかったです。

 

属性にとらわれやすいから、属性を手放したいのかもしれない(仮説)

 

読んでいただきありがとうございました!